小倉には二十代後半に来たことがある。
私は当時、繊維機械メーカーで技術職に就いていた。
入社時には従業員50名程の小さな会社だったが、高度成長のお蔭で
大阪万博開催頃には150名までになっていた。
しかし、くすぶり続けた日米貿易摩擦、特に繊維産業は目の敵とされる。
お得意さんは9割以上が繊維メーカーであったので大変な事である。
「脱繊維」を目指し、選んだのが鉄鋼メーカーであった。
製品としては反物の巻取り技術を生かして自動車用の薄板鋼板の巻取り制御。
各地の製鉄所を回った内の一つが八幡製鉄所だった。
工場の広さ、ラインのデカさに驚いた。
まず正門から工場内に循環バスが走っており、それが何系統もあるのだ。
ラインは布と違い、スピードと力強さに圧倒された。
それでも試作機を川鉄に収める事が出来た。
軽量化の為、今まで通りアルミ製の装置を持参し「何でアルミや」と言われた。
彼らにとって鉄の重さは問題にしていない、ラインへの取り付けはほとんど溶接。
これは安全の上からも重要(ボルトやナットの脱落事故が無くなる)。
鉄を切ったり(勿論溶断)貼ったり(溶接)するのは紙細工ほどの感覚だ。
2年足らずの活動は結実する事無く、会社は銀行管理、100名程のリストラとなる。
10年務めた私も100人の一人となる。
1年程の浪人後、食品機械メーカーの営業職に就いた。
未経験の職種であったが、過去、多くの会社を訪問、大勢の方々に教えられた事が役立った。
そんな思いの中、博多から来た特急・ソニックはスイッチバックで大分に向かう。
日豊線での思い出
人生